2018年01月
2018年01月12日
この歳になるまで、お正月は平凡に家族と過ごすのが普通で当然のことだった。
それが、今年は、年末から刺激的な時間をすごし、お正月は病院で迎えることになってしまった
12月半ば過ぎから、2回ほど、救急車を呼ぼうかと思うような激しい胸の痛みに襲われた。
かかりつけの病院で大学病院を紹介してもらい受診。
2泊3日の心臓カテーテル検査を受けるようにすすめられた。
それも、すぐ、12月の25、26、27日…
つばさのことが心配でどうしようかと思った。
でも、年末年始に救急車を呼ぶようなことになっては困るし、
こんなにすぐの予約をすすめてくれているのに伸ばすのもヘンだし、
3日間だしと思い、検査を受けることにした。
先生にも、「死ぬかと思いましたか?」と聞かれ、
「ハイ」
と答えると、
「だったら、やったほうがいいですよ」
と言われ、決心。
ミントにも、つばさにも、「あさって帰ってくるからね」
と言って、病院へでかけた。
検査は26日だったけれど、
25日夜8時頃、
突然、ベッドの上で、激しい胸痛が襲った。
すぐにナースコールを押した。
看護師さん、先生が数人駆けつけてくれた。
この時の状態は、脈が30台、血圧は60mmHgとショック状態で、脳に血流がいかないような状態だったそう… 急性心筋梗塞を起こした状態、とにかく苦しかった。
一度は治まったけれど、30分くらいすると、再び胸痛が起こった。
先生、
「こんなにすごいの?! 入院していてよかったねえ」と言われた。
もし、これが自宅で起きていたら、アウトだったかもしれない。
検査は明日だったけれど、
先生が「怖くて明日まで待てない」
ということで、
すぐに心臓カテーテル検査をすることになった。
検査の時には家族が病院にいなくてはならないので、お父さんに連絡が行ったようだった。
「わかった!よかった、検査して」の先生の声で、検査が終わった。
検査が終わると、集中治療室へ運ばれた。
しばらくすると、離れたところで誰かに説明するような先生の声が聞こえた。
そして、ビックリw(゚o゚)w オオー!
室内が薄暗くてよくわからなかったけれど、
まずは、息子達と弟が現われた。
もう、深夜にもかかわらず、私の弟、息子たち、嫁さん達、孫たち、までみんな来ていた。
15歳以下の孫達は集中治療室には入れなかったけれど
ホントにびっくりした。
「どうしたの? どうしてみんなここにいるの(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?」
先生に、一応集まってもらってと言われたらしい。
私は、死ぬつもりなんて、まったく、なかったのに。
でも、無事でよかった
そして、ICD(ペースメーカー)の埋め込み手術を、
27日に受けることになった。
ICDは、先生の言葉でいうと、
AEDを体内に持っているようなもの
脈の保険
だという。
まさか私がペースメーカーをいれる人間になるとは思いもよらなかった。
人生は、いつ、どうなるか、まったくわからないものだ。
28日の午前中まで集中治療室で過ごした。
またあんな苦しい胸痛に襲われたらたまらないと思い、右手にはいつもナースコールをしっかりと握り続けた。
一般病室に移ってからも、しばらくは、ナースコールが手放せなかった。
30日になると、少し体がラクになった。
30日、朝早く来たおとうさんが言った。
「つばさが元気がない」
おとうさんが帰ってから、30日の午前中まで動物病院がやっていることを思い出した。
メールで、病院に連れて行って欲しい、点滴をしてもらって欲しいと連絡した。
いろいろ、メールでやりとりしていると、
看護師さんがやってきた。
私の心電図はナースステーションでもわかるようになっていた。
「低いねえ、低いねえ」
心電図を見ながら、看護師さんが言う。
先生が来て、胸の音を聴いて、音が変だから、CTを撮ってきて!と言われた。
結果は、胸に水がたまっていた。
もう、これはダメだと思った。
猫のことを心配するより、
まずは、自分の体をしっかりと治して、一日も早く退院しようと思った。
結局、つばさを捕まえることができず、病院には連れて行けなかった。
つばさはおとうさんが近づくと、威嚇するような仲になってしまった。
もう、どうしようもない。
それからは、毎日やってくるお父さんに、つばさのことは怖くて聞けなくなった。
お父さんも猫の話は何もしない。
6日の退院予定だったのが、
まだ胸に水が残っている、
心臓が以前より大きくなっていると言われて、
伸びてしまった。
鼻につけている酸素吸入のクダがまだはずせずにいたので、とても退院は無理だった。
そして、
7日の夕方、ついに悲しいメールが来てしまった。
つばさの呼吸が荒い…
結局、もう、どうしようもなく、
温かく静かにさせる のが一番ということになった。
夜中に目が覚めては、いろいろと想った。
まだ、生きているだろうか?
翌日8日、朝5時半ころ、おとうさんが見に行くと、
まだ生きていた。
つばさは一晩がんばって、誰かが来るのを待っていたのかもしれない。
午前6時15分、
「ニャア」
と一声鳴いて、旅立っていったそう…
実際にはおとうさんだけれど、
私が来たと勘違いしてくれているならば、
ちょっとホッとするんだけれどなあ。
「ニャア」
って何を言いたかったんだろう。
9日にやっと退院ができた。
もう少し早く退院ができれば、
つばさがもう少しがんばってくれれば、
会えたのに
本当にかわいそうなことをしてしまった。
なんとも、今回は、タイミングが悪かった。
私がいて、点滴やステロイドを飲ませて、なんとか食べさせようとしていれば、もっと長く生きられただろう。
ホントに、ごめんね、つばさ
いつも後悔しないように、やってきたけれど、こんなケースもあるのかと嘆いた。
海外旅行さえ我慢すれば、家を空けることなどないと思っていたけど、
人間はいつ病気になるかわからないし、いつ入院することになるかもわからない。
祖母も96歳まで生きたし、母も86歳でまだ元気だから、私も当然長生きだと自分では想っていた。
でも、今回のことで気づいたけれど、祖母も母も、そういえば、大病をして入院している時期があった。
ラクして長生きしているわけではないんだ。。と改めてわかった。
自分はゼッタイ長生きできる、ゼッタイずっと健康、ゼッタイぼけないなんて、言えないとわかった。
よりによって、命にかかわるような臓器、心臓が病気になるなんて思いもよらなかった。
つばさはおとなしくて、いい子だったのに、もう少し長生きさせてあげたかった。
かわいそうなことをしてしまった。
9日の夜は、イケアのベッドに寝かせ、
10日に庭に埋葬した。
10日は、すみれとコナツの命日。
すみれとコナツのすぐ近くに埋めた。
これからは、ペースメーカー ICDとともに生きていかなければならない。
飲み薬と貼り薬が命の綱の体になってしまった。
今だ、胸痛の恐怖が抜けない。
今年は、がんばらないで、ゆっくりとした生活をしていこうと思う
それが、今年は、年末から刺激的な時間をすごし、お正月は病院で迎えることになってしまった
12月半ば過ぎから、2回ほど、救急車を呼ぼうかと思うような激しい胸の痛みに襲われた。
かかりつけの病院で大学病院を紹介してもらい受診。
2泊3日の心臓カテーテル検査を受けるようにすすめられた。
それも、すぐ、12月の25、26、27日…
つばさのことが心配でどうしようかと思った。
でも、年末年始に救急車を呼ぶようなことになっては困るし、
こんなにすぐの予約をすすめてくれているのに伸ばすのもヘンだし、
3日間だしと思い、検査を受けることにした。
先生にも、「死ぬかと思いましたか?」と聞かれ、
「ハイ」
と答えると、
「だったら、やったほうがいいですよ」
と言われ、決心。
ミントにも、つばさにも、「あさって帰ってくるからね」
と言って、病院へでかけた。
検査は26日だったけれど、
25日夜8時頃、
突然、ベッドの上で、激しい胸痛が襲った。
すぐにナースコールを押した。
看護師さん、先生が数人駆けつけてくれた。
この時の状態は、脈が30台、血圧は60mmHgとショック状態で、脳に血流がいかないような状態だったそう… 急性心筋梗塞を起こした状態、とにかく苦しかった。
一度は治まったけれど、30分くらいすると、再び胸痛が起こった。
先生、
「こんなにすごいの?! 入院していてよかったねえ」と言われた。
もし、これが自宅で起きていたら、アウトだったかもしれない。
検査は明日だったけれど、
先生が「怖くて明日まで待てない」
ということで、
すぐに心臓カテーテル検査をすることになった。
検査の時には家族が病院にいなくてはならないので、お父さんに連絡が行ったようだった。
「わかった!よかった、検査して」の先生の声で、検査が終わった。
検査が終わると、集中治療室へ運ばれた。
しばらくすると、離れたところで誰かに説明するような先生の声が聞こえた。
そして、ビックリw(゚o゚)w オオー!
室内が薄暗くてよくわからなかったけれど、
まずは、息子達と弟が現われた。
もう、深夜にもかかわらず、私の弟、息子たち、嫁さん達、孫たち、までみんな来ていた。
15歳以下の孫達は集中治療室には入れなかったけれど
ホントにびっくりした。
「どうしたの? どうしてみんなここにいるの(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?」
先生に、一応集まってもらってと言われたらしい。
私は、死ぬつもりなんて、まったく、なかったのに。
でも、無事でよかった
そして、ICD(ペースメーカー)の埋め込み手術を、
27日に受けることになった。
ICDは、先生の言葉でいうと、
AEDを体内に持っているようなもの
脈の保険
だという。
まさか私がペースメーカーをいれる人間になるとは思いもよらなかった。
人生は、いつ、どうなるか、まったくわからないものだ。
28日の午前中まで集中治療室で過ごした。
またあんな苦しい胸痛に襲われたらたまらないと思い、右手にはいつもナースコールをしっかりと握り続けた。
一般病室に移ってからも、しばらくは、ナースコールが手放せなかった。
30日になると、少し体がラクになった。
30日、朝早く来たおとうさんが言った。
「つばさが元気がない」
おとうさんが帰ってから、30日の午前中まで動物病院がやっていることを思い出した。
メールで、病院に連れて行って欲しい、点滴をしてもらって欲しいと連絡した。
いろいろ、メールでやりとりしていると、
看護師さんがやってきた。
私の心電図はナースステーションでもわかるようになっていた。
「低いねえ、低いねえ」
心電図を見ながら、看護師さんが言う。
先生が来て、胸の音を聴いて、音が変だから、CTを撮ってきて!と言われた。
結果は、胸に水がたまっていた。
もう、これはダメだと思った。
猫のことを心配するより、
まずは、自分の体をしっかりと治して、一日も早く退院しようと思った。
結局、つばさを捕まえることができず、病院には連れて行けなかった。
つばさはおとうさんが近づくと、威嚇するような仲になってしまった。
もう、どうしようもない。
それからは、毎日やってくるお父さんに、つばさのことは怖くて聞けなくなった。
お父さんも猫の話は何もしない。
6日の退院予定だったのが、
まだ胸に水が残っている、
心臓が以前より大きくなっていると言われて、
伸びてしまった。
鼻につけている酸素吸入のクダがまだはずせずにいたので、とても退院は無理だった。
そして、
7日の夕方、ついに悲しいメールが来てしまった。
つばさの呼吸が荒い…
結局、もう、どうしようもなく、
温かく静かにさせる のが一番ということになった。
夜中に目が覚めては、いろいろと想った。
まだ、生きているだろうか?
翌日8日、朝5時半ころ、おとうさんが見に行くと、
まだ生きていた。
つばさは一晩がんばって、誰かが来るのを待っていたのかもしれない。
午前6時15分、
「ニャア」
と一声鳴いて、旅立っていったそう…
実際にはおとうさんだけれど、
私が来たと勘違いしてくれているならば、
ちょっとホッとするんだけれどなあ。
「ニャア」
って何を言いたかったんだろう。
9日にやっと退院ができた。
もう少し早く退院ができれば、
つばさがもう少しがんばってくれれば、
会えたのに
本当にかわいそうなことをしてしまった。
なんとも、今回は、タイミングが悪かった。
私がいて、点滴やステロイドを飲ませて、なんとか食べさせようとしていれば、もっと長く生きられただろう。
ホントに、ごめんね、つばさ
いつも後悔しないように、やってきたけれど、こんなケースもあるのかと嘆いた。
海外旅行さえ我慢すれば、家を空けることなどないと思っていたけど、
人間はいつ病気になるかわからないし、いつ入院することになるかもわからない。
祖母も96歳まで生きたし、母も86歳でまだ元気だから、私も当然長生きだと自分では想っていた。
でも、今回のことで気づいたけれど、祖母も母も、そういえば、大病をして入院している時期があった。
ラクして長生きしているわけではないんだ。。と改めてわかった。
自分はゼッタイ長生きできる、ゼッタイずっと健康、ゼッタイぼけないなんて、言えないとわかった。
よりによって、命にかかわるような臓器、心臓が病気になるなんて思いもよらなかった。
つばさはおとなしくて、いい子だったのに、もう少し長生きさせてあげたかった。
かわいそうなことをしてしまった。
9日の夜は、イケアのベッドに寝かせ、
10日に庭に埋葬した。
10日は、すみれとコナツの命日。
すみれとコナツのすぐ近くに埋めた。
これからは、ペースメーカー ICDとともに生きていかなければならない。
飲み薬と貼り薬が命の綱の体になってしまった。
今だ、胸痛の恐怖が抜けない。
今年は、がんばらないで、ゆっくりとした生活をしていこうと思う